92
前にも書いたことがあると思うが、基本的に僕は自分の本は読まない。
執筆・推敲・再推敲・校正・再校正……という具合に、本として出版されるまでに自分の書いたものは何度も繰り返し読んでいる。だから、本が印刷されて手元に届いた時には、もうすっかり読み飽きてしまって、見たくもない気分なのである。
でも、この年末年始には、ほんの気まぐれに、「大石圭」という作家の本を何冊か広げ(最近、我が家には大石圭の全著作がようやく揃いました)、他人が書いたものを読むように、少し冷ややかな目で読んでみた。
そして、思った。
「この大石圭ってやつ、とてつもない変態だなあ。こいつ、大丈夫なのかなあ」
読者のみなさんは、そうは感じないのだろうか?
少なくとも、僕は強くそう感じた。同時に、「危ないやつだなあ」とも思った。こんなものを書くようなやつとは、絶対に仲良くなりたくないな、と。
自分が書いたはずなのに、それらを読み返すと、その時の自分の気持ちが僕にはまったく思い出せない。
「いったい、どんなつもりでこんな小説を書いたのだろう?」
「こんなことを、いったい、いつ思いついたのだろう?」
まるで他人が書いたものみたいな気がする。
もし、これを書いたのが本当に僕ならば……僕って男は大丈夫なのだろうか?
不安になった僕は妻に尋ねた。
「こんな小説を書いている僕って、すごく変態なのかなあ?」
だが、妻から戻って来たのは、「あなたはまったく変態ではない」という言葉である。
そう。妻に言わせれば、僕は「どこにでもいる、ごくありきたりで、ごく平凡な男」なのである。
その返答に安堵しながらも、僕自身もその通りだと思った。
自慢するわけではないが、僕は割と真面目だし、人の話はよく聞くし、約束は守るし、人を裏切ったりしないし、人に意地悪もしない(「お菊」には意地悪をします)。誰かを憎むこともしないし、人を妬むことも嫉むことも羨むこともない(東野圭吾さんの本の売れ行きだけは羨んでおりますが)。そして、妻に言わせれば、僕は妻以外のすべての人に優しいらしい。
けれど、大石圭という作家はそういうタイプの人間ではない。少なくとも、彼の本を読む限り、大石圭という小説家はかなり意地悪で、かなり卑屈で、悪意たっぷりで、人間の持つ負の感情に満ち満ちているように感じる。
いったい、僕の頭の中はどうなっているんだろう?
自分でもそれがよくわからない。僕はあんな本を書くような男ではないのだ。
第三者として冷静に推測すると、たぶん、机に向かって本を書いている時の僕は、まったく別の人間になっているのだろう。つまり、机に向かって小説を書き始めたとたんに、僕の頭の中で何かがカチンと切り替わるのだろう。
というわけで、机に向かっていない時の僕には、大石圭という作家の気持ちがよくわからない。彼がきょうは何を書くのかも、よくわからない。
それは不安なことではあるのだが、同時に、少しわくわくしたりもする。
大石圭ってやつ、次はどんなものを書くつもりなのだろう?
そう。読者のみなさまと同じように、僕自身も大石圭という中年の作家に期待しているのです。
頑張れよ、大石圭!!
3月に徳間文庫から出る「愛されすぎた女」が、僕のちょうど40冊目になります(単行本から文庫本になったものや、海外での翻訳は除く)。思えば遠くに来たものです。
ここまで続けて来られたのは、すべて、みなさまのおかげです。ありがとうございます。これからも、今まで以上に頑張るつもりです。
今年もよろしくお願いいたします。

