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光文社からの新作「横浜奴隷市場(仮題)」をようやく書き終え、次はまた角川ホラー文庫への執筆である。
「さて、次は何について書いたらいい?」
新しい本に取りかかる時、僕はいつも自分に問いかける。
いや、それは違う。
僕は自分ではなく、僕の中に棲んでいる「邪な生き物」に問いかけるのだ。
するとやがて、その「邪な生き物」は、僕に何らかの小説のアイディアを教えてくれる。そして、僕はいつも、そのアイディアにすがりつくようにして書き始める。
そう。『飼育する男』や『邪な囁き』の「あとがき」で書いたことは本当なのだ。これまで僕はいつだって、自分の中の邪悪さを文章にして来たのだ。そうすることによって、自分自身は犯罪者になることを免れて来たのだ。
その昔、僕の中に棲む「邪な生き物」は、本当に邪悪なやつだった。人が嫌がることを考えるのが大好きで、まるで、人間の負の感情のすべてを集めてできているかのような、嫌らしいやつだった。
かつて、そいつは、僕の問いかけに即座に答えてくれた。
「今度はこれについて書け。きっと良識のある人たちが眉をひそめるぞ」
「次はこれを書け。PTAのおばさんたちが、間違いなく顔を背けるぞ」
僕はその言葉に従って『死者の体温』を書き、『処刑列車』を書いた。『殺人勤務医』を書き、『湘南人肉医』を書き、『飼育する男』を書いた。
けれど、書き続けるにつれて、困ったことが起きて来た。
僕がひとつの本を書き上げるたびに、僕の中に棲む「邪な生き物」は、その邪悪なパワーを失っていったのだ。
僕にはそれは驚きだった。そいつの邪悪さは、井戸の水のように無限に湧き出て来るものだと僕は思っていたのだ。
だが、そうではなかった。
まるで教会で神父に懺悔をした信者のように、僕の中の「邪な生き物」は、僕が本を書くたびに心を浄化させられてしまったようなのだ。僕が25冊を超える本を書いた今では、そいつはすっかり日和ってしまって、学級委員のような「よい子」に成り下がってしまったようなのだ。
「おい、今度は何を書いたらいいんだ?」
最近では僕がそれを訪ねても、そいつはまともな答えを出すことがほとんどない。
そいつが提案するのは、バカバカしくて笑ってしまうような「お涙ちょうだい」「勧善懲悪」「美しき純愛」といった類いの陳腐な話ばかりである。
「バカやろう!! 日和ってる場合じゃねえぞっ!! もっと邪悪になれ!!」
僕はこうしてきょうも、すっかり「いい子」になってしまったそいつを、叱咤激励しながら新たな邪悪を考えているのである。
このままだと、いつか僕は、道徳の教科書に載るような「いい話」を書いてしまう。
かつて「有無を言わせぬ変態」と言われた僕の、それが今の最大の心配事である。

